大相撲の歴史において、これほどまでに「張り手」という技が代名詞となった力士は他に存在しません。旭道山の張り手は、単なる牽制や崩しのテクニックを超え、相手を一撃でマットに沈めるボクシングのノックアウトのような衝撃を土俵にもたらしました。体重100キロそこそこの小兵が、倍以上の巨漢たちをなぎ倒す姿は、多くのファンに熱狂と戦慄を与えたのです。
- 1992年夏場所の久島海戦で見せた伝説の一撃KO
- 「南海のハブ」と呼ばれた軽量力士の生存戦略
- 相撲ルールにおける張り手の定義と当時の是非論争
本記事では、旭道山の張り手がなぜ伝説化したのか、その威力と背景にある相撲の真実を詳細に紐解いていきます。
旭道山の張り手伝説!相撲史に残る衝撃のKO劇とは
旭道山の張り手が伝説として語り継がれる最大の理由は、その破壊力が常識の範疇を超えていたことにあります。通常、相撲の張り手は相手の顔を横に向けさせたり、重心を崩したりするために用いられますが、旭道山のそれは相手の意識を断ち切る「打撃」そのものでした。特に1990年代前半の土俵において、彼の平手打ちは凶器とも呼べる威力を発揮し、対戦相手たちを恐怖のどん底に突き落としたのです。ここでは、その象徴的なエピソードである久島海戦や武蔵丸戦を中心に、当時の衝撃を振り返ります。
久島海を一撃で失神させた戦慄の瞬間
1992年夏場所11日目、旭道山と久島海の一番は、大相撲の歴史に残る衝撃的な結末を迎えました。立ち合い、旭道山が左手を鋭く伸ばして久島海の顔面を捉えると、190キロを超える巨体が糸の切れた人形のように崩れ落ちたのです。土俵上にうつ伏せに倒れた久島海はピクリとも動かず、館内はどよめきから悲鳴にも似た異様な雰囲気に包まれました。これは相撲の取組というよりも、格闘技のKOシーンを見ているかのような錯覚を観客に与えるものでした。救護班が駆けつける事態となり、旭道山の張り手の威力が世間に知れ渡る決定的な瞬間となったのです。
公式記録は「引き落とし」でも記憶は「張り手」
この一番の決まり手は、公式記録上では「引き落とし」とされていますが、ファンの記憶には「張り手によるKO」として深く刻まれています。相撲の決まり手82手の中に「張り手」という名称は存在せず、結果的に相手がどう倒れたかで分類されるため、便宜上引き落としとされたに過ぎません。しかし、実態は明らかに顔面への打撃による脳震盪であり、相撲の技でこれほど鮮やかに相手を失神させるケースは極めて稀です。記録よりも記憶に残る一番として、旭道山の名前とともにこのシーンは永遠に語り継がれていくことでしょう。
武蔵丸の奥歯を折った破壊力の正体
旭道山の張り手の犠牲になったのは久島海だけではなく、後の横綱・武蔵丸もその洗礼を受けています。1992年秋場所2日目、旭道山の強烈な張り手(掌底)を食らった武蔵丸は、膝から崩れ落ちるように倒れました。この時、武蔵丸は奥歯を折られたとも伝えられており、旭道山の掌底がいかに骨格に響く重い一撃であったかを物語っています。単に表面を叩くのではなく、体重を乗せて急所を的確に射抜く技術があったからこそ、巨漢力士たちを次々と破壊することができたのです。
対戦相手たちが抱いた恐怖と怒り
当時、旭道山と対戦する力士たちは、常に張り手への警戒と恐怖心を抱いて土俵に上がっていました。栃乃和歌が張り手を受けて眼球内出血を起こし、支度部屋で「あいつはおかしいんじゃないか」と激怒したエピソードは有名です。力士にとって顔面への打撃は、視界を奪われるだけでなく、選手生命に関わる怪我につながるリスクがあるため、旭道山のスタイルは脅威そのものでした。しかし、恐怖心を与えることこそが旭道山の狙いであり、相手が怯んだ一瞬の隙を突くことが彼の勝ち筋だったのです。
「張り手」というキーワードが持つ意味
旭道山にとっての「張り手」とは、単なる攻撃手段ではなく、小よく大を制するための究極の武器でした。彼以前にも張り手を使う力士はいましたが、ここまで主武器として昇華させ、KO劇を連発した力士は空前絶後と言えます。そのため、「旭道山といえば張り手」「張り手といえば旭道山」という強固なイメージが定着し、相撲ファン以外にもその名が知られるようになりました。このキーワードは、平成初期の相撲ブームを彩る、危険で刺激的なスパイスとして機能していたのです。
なぜ旭道山は張り手を選んだのか?軽量力士の生存戦略
旭道山が過激とも言える張り手を多用した背景には、自身が置かれた過酷な身体的ハンデがありました。入門時の体重はわずか58キロ、現役時代のピーク時でも100キロ台前半という体格は、幕内力士としてはあまりに軽量すぎたのです。200キロ近い巨漢がひしめく土俵の上で、まともに組み合って勝てる見込みは万に一つもありませんでした。彼が生き残り、番付を上げるためには、常識的な相撲を捨て、特化した武器を磨く必要があったのです。
正面突破不可能という絶望的な現実
相撲の基本である「押してよし、組んでよし」を実現するには、絶対的な質量とパワーが不可欠です。しかし、旭道山の体格では、小錦や曙といった外国出身の大型力士たちに対し、正面から当たっても弾き飛ばされるのが関の山でした。物理的な質量差は技術だけで埋められるものではなく、まともな相撲を取ろうとすればするほど、怪我のリスクも高まります。この「正面突破不可能」という絶望的な現実を直視したことから、彼の独自のスタイル模索は始まりました。
「南海のハブ」と呼ばれた一撃離脱戦法
旭道山の取り口は、その鋭さと粘り強さから、故郷・徳之島の猛毒蛇になぞらえて「南海のハブ」と称されました。張り手で相手を怯ませ、動きが止まった瞬間に懐へ潜り込んだり、出し投げを打ったりする戦法は、まさに獲物を仕留めるハブの動きそのものでした。張り手は相手を倒すためだけでなく、自分より大きな相手をコントロールし、自分の土俵に引きずり込むための重要なセットアップでもありました。この一撃離脱戦法こそが、軽量力士が幕内で戦い抜くための唯一の活路だったのです。
徹底的に鍛え上げられた掌底の技術
彼の張り手は、ただ闇雲に手を振り回しているのではなく、計算され尽くした「掌底」の技術に裏打ちされていました。手首を痛めないようにテーピングで固め、顎の先端や鼻の下などの急所を的確に狙い撃つ技術は、ボクサーのパンチと同等の精度を持っていました。稽古場でも丸太を突くなどして掌を鍛え上げ、骨をも砕く硬度を手に入れたと言われています。この鍛錬があったからこそ、あの細い体から繰り出される一撃が、巨漢力士を失神させるほどの威力を生み出したのです。
相撲ルールにおける張り手の定義と限界ライン
旭道山の活躍と同時に巻き起こったのが、「張り手は相撲として正しいのか?」という議論でした。ボクシングのようなKOシーンが頻発する事態に、伝統を重んじる角界やファンからは賛否両論の声が上がりました。しかし、ルール上において張り手は明確に認められた攻撃手段であり、決して反則行為ではありません。ここでは、相撲規則における張り手の扱いや、当時の旭道山が直面した批判、そして彼なりの正当性について解説します。
グーは反則だがパーは有効という理屈
大相撲の禁じ手(反則)には「握り拳で殴ること」が含まれていますが、掌(てのひら)で張る行為は禁止されていません。つまり、グーで殴れば反則負けになりますが、パーで叩くことは、たとえ相手が失神しようとも正当な技術として認められるのです。このルールの隙間とも言える領域を極限まで追求したのが旭道山であり、彼の攻撃は常にルールブックの範囲内で行われていました。どんなに批判されようとも、彼が反則負けを宣告されることはなく、勝負の結果は覆らなかったのです。
横綱審議委員会からの批判と品格問題
ルール上は問題なくとも、横綱審議委員会や一部の親方衆からは「横綱・大関に対する張り手は品格に欠ける」という批判が度々なされました。相撲は神事としての側面も持ち合わせているため、顔面を執拗に攻撃するスタイルは「美しくない」「見苦しい」と捉えられることがあったのです。特に上位陣に対する張り手は、敬意を欠く行為としてタブー視される風潮も根強く残っていました。旭道山は勝利を追求するアスリートとしての姿勢と、角界が求める品格との間で、常に板挟みになっていたと言えます。
生きるための技術としての正当性
しかし、旭道山にとって張り手は、美学や品格以前に、力士として「生きるための手段」でした。恵まれた体格を持つ力士が正攻法で戦うのと、小兵力士が知恵と技術で対抗するのを同列に語ることはできません。彼は批判に対して「自分の体で勝つにはこれしかない」という信念を貫き、結果を出すことで自らの存在意義を証明し続けました。ルール違反をしていない以上、勝つための工夫を凝らすことはプロとして当然の権利であり、そのハングリー精神こそが彼を支えていたのです。
記憶に残る名勝負!小錦や若貴との激闘
旭道山の現役時代は、若貴ブームに沸く相撲界の黄金期と重なっており、数多くの名力士たちとしのぎを削りました。彼の特異なスタイルは、正統派の力士たちとの対比でより一層際立ち、会場を沸かせる名勝負製造機としての役割も果たしていました。特に、自分よりはるかに巨大な小錦との対戦や、若貴兄弟との一番は、単なる勝敗を超えたドラマを生み出しました。ここでは、張り手だけではない旭道山の相撲の魅力と、記憶に残る対戦を振り返ります。
体重差100キロ超!小錦への果敢な挑戦
当時、体重280キロを超えていた巨漢・小錦との対戦は、まさに「ダンプカーと軽自動車の衝突」のような光景でした。常識的に考えれば勝負にならない体重差がありましたが、旭道山は決して逃げることなく、張り手を交えながらスピードで攪乱する戦法で挑みました。小錦の強烈な突き押しを食らえば一発で吹き飛ぶ恐怖と隣り合わせの中、土俵際で見せる逆転の突き落としや、足を取っての攻撃は観客を熱狂させました。この「柔よく剛を制す」を体現しようとする姿勢が、判官贔屓のファンの心を掴んだのです。
若貴時代の名脇役としての存在感
若花田(のちの若乃花)や貴花田(のちの貴乃花)といった若手スターたちが台頭する中で、旭道山は彼らの壁としても立ちはだかりました。正統派の四つ相撲を得意とする貴乃花に対し、トリッキーな動きと激しい張り手でペースを乱そうとする旭道山の相撲は、好対照なコントラストを描いていました。彼は主役ではありませんでしたが、主役たちの強さを引き立て、また時には主役を食ってしまう「食わせ者」として、当時の相撲人気を支える重要なピースでした。彼の存在があったからこそ、大相撲は予測不能な面白さを保てたのです。
土俵外での人気とパフォーマンス
旭道山の魅力は土俵の中だけにとどまらず、その端正なルックスと明るいキャラクターで土俵外でも高い人気を誇りました。勝利後のインタビューで見せる人懐っこい笑顔は、土俵上の鬼気迫る表情とのギャップが激しく、多くの女性ファンを魅了しました。また、塩を撒く際の所作や、制限時間いっぱいでの気合の入れ方など、観客を楽しませるパフォーマンスの要素も持ち合わせていました。彼は単に勝つだけでなく、プロとして「見られること」を強く意識していた、先駆的な力士だったと言えるでしょう。
旭道山が残した功績と現代相撲への視点
現役引退後、旭道山は政治家へと転身し、その後も実業家やタレントとして多方面で活躍していますが、彼が相撲界に残した爪痕は今も消えていません。彼の活躍は、体格に恵まれない小兵力士たちに「やり方次第で横綱・大関とも渡り合える」という希望を与え、相撲の技術体系に新たな可能性を示しました。現代の相撲においても、炎鵬や宇良のような小兵力士が活躍するたびに、その源流として旭道山の名前が想起されます。最後に、彼が残した功績と現代への影響をまとめます。
小兵力士の可能性を拡張したパイオニア
旭道山は、大型化が進む相撲界において、「小兵は技で勝つ」という概念を極限まで推し進めたパイオニアでした。舞の海が「技のデパート」として多彩な決まり手を見せたのに対し、旭道山は「打撃」というアグレッシブな要素を取り入れることで、小兵の戦い方に攻撃的なオプションを加えました。彼の成功は、後の力士たちに「体格差を言い訳にしない」というメンタリティを植え付け、トレーニングや戦術の研究次第で道が開けることを証明しました。その功績は、記録上の数字以上に大きなものです。
現代の張り手議論への示唆
近年、白鵬(現・宮城野親方)の現役時代の張り手やかち上げが議論になりましたが、その際にも比較対象として旭道山の名前が挙がることがありました。しかし、圧倒的強者である横綱の張り手と、弱者が生き残るための旭道山の張り手では、その意味合いやファンに与える印象が異なります。旭道山の張り手が一定の支持を得ていたのは、それが「生存本能」から来る必死の策だったからです。この事実は、技の是非を問う際に、力士の置かれた立場や文脈を考慮することの重要性を我々に教えてくれます。
引退後の多才な活動と相撲愛
土俵を去った後も、旭道山は解説者として、あるいはメディアを通じて相撲の魅力を発信し続けています。彼の解説は、力士の心理や痛みがわかる経験者ならではの視点に富んでおり、現役時代を知るファンにとっては懐かしく、新しいファンにとっては新鮮な発見があります。政治家時代を含め、常に挑戦を続けてきた彼の生き方は、現役時代のプレースタイルそのものであり、そのバイタリティは衰えることを知りません。彼は今もなお、形を変えて相撲界を盛り上げる「愛すべき異端児」であり続けているのです。
まとめ
旭道山の張り手は、単なる反則すれすれのラフプレーではなく、体格差という絶対的な壁を打ち破るために磨き上げられた究極の技術でした。久島海を一撃で倒した衝撃や、武蔵丸の歯を折った破壊力は、相撲という競技が持つ格闘技としての激しさを世に知らしめました。同時に、彼の存在は「ルールの中でいかに勝つか」というプロフェッショナリズムの体現でもありました。
現代の相撲界においても、彼の残したインパクトは色褪せることなく、小兵力士が巨漢に挑む際の精神的な支柱となっています。もし再び当時の映像を見る機会があれば、その張り手一発に込められた、生き残りをかけた凄まじい執念を感じ取ってみてください。そこには、単なる勝敗を超えた、一人の男の生き様が凝縮されているはずです。


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