阿炎が入門した意外なきっかけ!「辞めたい」を変えた亡き師匠との感動秘話!

土俵上で見せるダイナミックな四股と、回転の速い突っ張りで観客を沸かせる阿炎関。
今でこそ幕内の主力として活躍していますが、実は入門前は「相撲を辞めたい」と繰り返す、意外な一面を持っていました。
彼が角界入りを決めた裏には、今は亡き師匠・錣山親方(元関脇・寺尾)との運命的なドラマが隠されています。

「普通の生活がしたい」と願っていた少年が、なぜ厳しい相撲の世界に飛び込んだのか。
その決断の瞬間には、師匠の熱意と、ある「偶然の勘違い」が重なっていました。
本記事では、阿炎関の入門のきっかけから、師弟の深い絆、そして現在の活躍に至るまでの軌跡を詳細に解説します。

  • 阿炎が入門を渋っていた驚きの理由
  • 亡き師匠・錣山親方がかけた決定的な言葉
  • 「辞めたい」を繰り返した少年時代の苦悩
  • 師弟の絆が深まった不祥事からの再生
  • 阿炎が受け継ぐ「錣山イズム」の真髄

阿炎が入門した意外なきっかけとは?亡き師匠との運命的な出会い

阿炎関(本名:堀切洸助)が角界入りを決めたきっかけは、決して「横綱になりたい」といった大きな夢からではありませんでした。
むしろ、高校卒業後は相撲を辞めて、ごく普通の社会人として働こうと考えていたのです。
そんな彼の運命を大きく変えたのは、錣山親方(元関脇・寺尾)からの熱烈なスカウトと、ある卒業旅行での出来事でした。

「就職したい」と願った高校時代

千葉県の流山南高校で相撲部に所属していた阿炎関ですが、当時はプロになるつもりは全くありませんでした。
厳しい稽古や規律の厳しい生活よりも、自由な時間を楽しみたいという現代っ子らしい感覚を持っていたのです。
両親にも「相撲は高校まで。卒業したら就職する」と明確に伝えていました。

高校3年生になり進路を決める時期になっても、その意志は固かったようです。
周囲が「才能があるのにもったいない」と説得しても、彼の心は簡単には動きませんでした。
相撲の実力は折り紙付きでしたが、プロの世界でやっていく自信や覚悟が、当時はまだ定まっていなかったのかもしれません。

しかし、そんな彼の才能を高く評価し、どうしても自分の部屋に入れたいと願う人物がいました。
それが、後の師匠となる錣山親方です。
親方は阿炎関の長い手足と柔軟性、そして何より土俵上での勘の良さに、かつての自分を重ね合わせていたのかもしれません。

親方は足繁く高校に通い、阿炎関だけでなく、ご両親や監督にも熱心に声をかけ続けました。
それでも阿炎関本人の「就職希望」の壁は厚く、交渉は難航していたと言います。
もし親方の熱意がなければ、私たちは土俵上で阿炎関の姿を見ることはできなかったでしょう。

転機が訪れたのは、高校の卒業旅行で大阪を訪れたときのことでした。
ちょうど大相撲春場所(大阪場所)の時期と重なっており、阿炎関は「遊びにおいで」と誘われ、錣山部屋の宿舎を訪ねることになります。

大阪での「最後の勧誘」と決断

大阪の宿舎を訪れた阿炎関に対し、錣山親方は連日のように入門を説得しました。
しかし、のらりくらりと躱す阿炎関に対し、ついに親方は「これで最後にする」と切り出します。
「お前の力を試す勝負をしてみないか?この勝負はきっと親孝行になるぞ」という言葉と共に、体験入門のような形で稽古に参加させたのです。

この時、阿炎関は初めて「相撲部屋のリアルな空気」を肌で感じることになります。
テレビや観客席から見るだけでは分からない、力士たちの息遣いやぶつかり合う音、そして生活の匂い。
それまでは漠然としたイメージでしかなかった「力士という職業」が、彼の中で急速に現実味を帯びていきました。

実はこの大阪滞在中、ある「勘違い」が入門を決定づけることになります。
阿炎関の父親が、息子が「入門したがっている」という趣旨の話を人づてに聞いてしまったのです。
実際にはまだ迷っていた阿炎関でしたが、父親はその言葉を信じ、親方に入門の挨拶をする準備を進めてしまいました。

後に引けなくなった阿炎関は、流れに身を任せる形で入門を承諾することになります。
「親孝行になるなら」という親方の言葉も、彼の背中を押したのかもしれません。
こうして、半ば強引ながらも運命の歯車が噛み合い、阿炎関の力士人生がスタートしました。

もしこの時、大阪に行っていなければ、あるいは親方が諦めていれば、今の阿炎関はいなかったはずです。
このエピソードは、人生の重要な決断が、時に偶然や勘違い、そして誰かの強い想いによって導かれることを教えてくれます。

師匠・錣山親方が見抜いた才能

錣山親方はなぜ、そこまでして阿炎関の入門にこだわったのでしょうか。
それは、阿炎関が持つ「規格外の身体能力」と「相撲センス」を誰よりも早く見抜いていたからです。
親方自身も現役時代は細身の体で大型力士に立ち向かった「突っ張り」の名手であり、阿炎関に自分と同じ可能性を感じていたのでしょう。

阿炎関の特徴である長い手足(リーチ)は、突っ張り相撲において最大の武器となります。
さらに、一見華奢に見えながらも強靭なバネを持つ肉体は、錣山親方が理想とする「回転の良い相撲」を体現できる素材でした。
親方は「こいつなら横綱になれる」と直感し、その原石を何としても磨き上げたかったのです。

また、阿炎関の「物怖じしない性格」も、親方が気に入った要素の一つでした。
厳しい勝負の世界では、どんな相手にも怯まないメンタルの強さが求められます。
阿炎関の飄々とした態度は、時に誤解を生むこともありましたが、親方はそれを「大物感」としてポジティブに捉えていました。

入門後、親方は自身の現役時代の四股名から「阿」の字を取り、燃えるような闘志を期待して「炎」をつけ、「阿炎」と名付けました。
さらに、親方の幼少期の愛称が「アビ」だったことも、この四股名の由来となっています。
自分の分身のように愛し、期待していたからこそ、これほど思い入れのある名を授けたのです。

こうして師弟関係が結ばれましたが、本当の試練はここから始まります。
「辞めたい」と思っていた少年が、いかにして「相撲に命を懸ける」力士へと変貌を遂げたのか。
次章では、入門後の苦悩と成長の過程を追っていきます。

「辞めたい」を繰り返した少年時代と修行時代

入門を果たしたものの、阿炎関の「相撲嫌い」や「辞めたい病」はすぐには治りませんでした。
実は幼少期から、彼は厳しい稽古から逃げ出す常習犯だったのです。
ここでは、そんな彼がいかにして相撲と向き合うようになったのか、その葛藤の日々を振り返ります。

トイレに隠れていた小学生時代

阿炎関が相撲を始めたのは小学1、2年生の頃、地域のわんぱく相撲大会で優勝したことがきっかけでした。
しかし、3年生で負けた悔しさから地元の「草加相撲練修会」に入ったものの、厳しい稽古は彼にとって苦痛でしかありませんでした。
特にぶつかり稽古の激しさを嫌い、稽古時間になるとトイレに隠れてやり過ごすことが日常茶飯事だったと言います。

「痛い」「辛い」が嫌いで、楽をして勝ちたいと考える少年でした。
それでも辞めなかったのは、道場の仲間との時間が楽しかったからに他なりません。
相撲そのものよりも、友達と遊ぶ感覚で道場に通っていたというのが、当時の正直なところでしょう。

中学生になっても「辞めたい」という気持ちは変わりませんでした。
中学卒業のタイミングで一度本気で辞めようとしましたが、指導者や両親に「もう少し頑張ってみよう」と説得され、渋々続けることになります。
この「説得されて続ける」というパターンは、高校進学時やプロ入り時まで繰り返されることになります。

高校の恩師と両親の支え

高校時代も、顧問の先生に何度も退部を申し出たというエピソードが残っています。
しかし、そのたびに先生は「お前には才能がある」「ここで辞めるな」と励まし続けました。
周囲の大人がこれほどまでに彼を引き留めたのは、やはり彼の中に眠る類稀な才能を感じ取っていたからでしょう。

両親もまた、息子の「辞めたい」という言葉を何度も聞きながら、温かく見守り続けました。
決して無理強いはしないものの、息子の可能性を信じ、道を踏み外さないようにサポートしていたのです。
阿炎関の奔放な性格を受け入れつつ、締めるところは締めるという教育方針が、彼を道に留まらせました。

特に、入門直前に背中を押した兄弟子・彩(松本豊)関の存在も大きかったようです。
同じ道場出身の先輩として、プロの厳しさも楽しさも知る彩関の言葉は、阿炎関にとって大きな影響力を持っていました。
「みんなが期待しているんだから」という周囲の想いが、少しずつ彼の責任感を芽生えさせていったのです。

入門後の「逃亡未遂」と師匠の忍耐

錣山部屋に入門した後も、阿炎関の奔放さは相変わらずでした。
厳しい規則や上下関係に馴染めず、夜中に部屋を抜け出そうとしたり、稽古に身が入らなかったりすることもあったそうです。
しかし、錣山親方はそんな彼を決して見捨てることはありませんでした。

親方は「あいつは宇宙人だ」と笑い飛ばしながらも、根気強く指導を続けました。
頭ごなしに怒るのではなく、阿炎関の性格を理解した上で、やる気を引き出す言葉を選んでいたのです。
「お前が強くなれば、部屋も盛り上がる」と、常に彼をチームの中心として扱い、自覚を促しました。

また、部屋の女将さんの存在も、阿炎関にとっては母親のような支えでした。
実家を離れて寂しさを感じる新弟子時代、厳しさの中にある家族のような温かさが、彼の孤独を癒やしていたはずです。
「辞めたい」と口にしながらも、部屋の居心地の良さが彼を留まらせていた側面もあったのでしょう。

不祥事からの再生と師弟の絆

順調に出世し、幕内上位に定着した阿炎関でしたが、2020年に大きな試練が訪れます。
コロナ禍におけるガイドライン違反による、3場所の出場停止処分です。
この出来事は、彼の力士人生における最大の危機であり、同時に生まれ変わるための最大の転機となりました。

師匠の涙と引退届

不祥事が発覚した際、錣山親方は責任を取り、阿炎関の引退届を協会に提出しようとしました。
それは「弟子を守るため」でもあり、「社会人としての厳しさを教えるため」でもありました。
親方は涙ながらに「もう一度チャンスをください」と頭を下げたわけではなく、むしろ「辞めさせるべきだ」という厳しい姿勢を見せることで、阿炎関に事の重大さを痛感させたのです。

結果的に引退は回避されましたが、幕内から幕下最下位近くまで番付を落とすことになります。
この期間、阿炎関は部屋の個室を剥奪され、掃除やちゃんこ番といった新弟子の仕事を一からやり直しました。
「相撲が取れない」という現実を前にして初めて、彼は心から相撲を愛している自分に気づいたといいます。

親方は、謹慎中の阿炎関に対してあえて突き放すような態度を取り続けました。
甘えを許さず、自分自身で考え、行動を変えることを求めたのです。
この「冷徹な愛」こそが、阿炎関の甘ったれた根性を叩き直すための、親方なりの最後の教育だったのかもしれません。

復帰後の快進撃と変化

出場停止期間が明け、土俵に戻ってきた阿炎関の姿は、以前とは別人のようでした。
ただ勝つだけでなく、相撲内容がより鋭く、より厳しくなっていたのです。
迷いのない突っ張り、相手を圧倒する気迫、そして土俵下での礼儀作法に至るまで、全てが洗練されていました。

復帰後、彼は破竹の勢いで関取(十両)に返り咲き、さらには幕内へと駆け上がりました。
そして2022年11月場所、ついに念願の幕内最高優勝を果たします。
優勝インタビューで彼が真っ先に口にしたのは、師匠・錣山親方への感謝と謝罪の言葉でした。

「師匠に迷惑をかけた分、これからは恩返しをしたい」。
その言葉通り、阿炎関は相撲に対して真摯に向き合う力士へと成長を遂げました。
かつての「辞めたい」と言っていた少年の面影は消え、部屋を背負って立つ看板力士としての自覚が芽生えていたのです。

亡き師匠への誓い

2023年12月、錣山親方は60歳という若さでこの世を去りました。
最愛の師匠を失った阿炎関の悲しみは計り知れませんが、彼は気丈にも土俵に上がり続けました。
「師匠なら『休まず出ろ』と言うはずだ」と、悲しみを力に変えて戦う姿に、多くのファンが涙しました。

親方が亡くなった後の場所でも、阿炎関は自身の相撲スタイルを貫き通しています。
それは、師匠から教わった「突っ張り」を極めることこそが、最大の供養になると知っているからです。
師匠の教えは、阿炎関の肉体と精神の中に、今も強く生き続けています。

阿炎の相撲スタイルに見る「錣山DNA」

阿炎関の相撲は、師匠である元関脇・寺尾の現役時代を彷彿とさせます。
ここでは、技術的な側面から「錣山DNA」がいかに受け継がれているかを解説します。
単なるコピーではなく、阿炎関独自の進化を遂げた技術にも注目です。

回転の良い突っ張り(つっぱり)

阿炎関の最大の武器は、何と言ってもその「諸手突き(もろてづき)」からの連続攻撃です。
立ち合いで両手を突き出し、相手の顎や胸を強烈に弾き飛ばすスタイルは、師匠直伝の技術です。
師匠も現役時代、「回転の良い突っ張り」で大型力士を翻弄しましたが、阿炎関はそれをさらに進化させました。

特に優れているのは、長いリーチを活かした「遠距離攻撃」です。
相手の手が届かない位置から一方的に攻めることができるため、自分のペースを作りやすいのです。
また、下半身の粘りも強化され、以前のように簡単に引いて自滅する場面が激減しました。

四股(しこ)の美しさと柔軟性

阿炎関といえば、足を高く上げる美しい「四股」が代名詞となっています。
この四股は、彼の股関節の柔軟性と体幹の強さを証明するものです。
師匠もまた、土俵入りの所作が美しいことで知られていましたが、この「美しさ」へのこだわりも継承されていると言えるでしょう。

柔軟性は、怪我の防止だけでなく、土俵際での逆転劇を生む要因ともなっています。
相手に攻め込まれても、上体を反らせて残すことができるのは、この柔軟性があってこそ。
ただし、師匠は「引くな、前に出ろ」と常に指導していたため、最近では守りに入るよりも、前に出る圧力が増しています。

「後の先」ではなく「先手必勝」

相撲には相手の出方を見る戦法もありますが、阿炎関のスタイルは完全なる「先手必勝」です。
これは、錣山部屋の伝統である「攻撃こそ最大の防御」という教えに基づいています。
迷わず前に出ることで活路を開く、その潔い取り口こそが、多くのファンを魅了する理由です。

まとめ:阿炎の入門は「必然」だった

阿炎関の入門のきっかけは、確かに「就職したかったが、流れで入ってしまった」という受動的なものでした。
しかし、その後の歩みを見れば、彼が角界に入ることは運命によって定められていたように思えます。
亡き師匠・錣山親方との出会いがなければ、彼の才能は埋もれたままだったでしょう。

「辞めたい」と逃げ回っていた少年は、今や大相撲界を牽引する関脇として、立派に土俵を務めています。
過去の過ちを乗り越え、師匠の教えを胸に戦い続ける彼の姿は、人々に勇気と感動を与えてくれます。
これからも、天国の師匠に届くような、激しくも美しい突っ張りを見せてくれることに期待しましょう。

もし相撲観戦に行く機会があれば、ぜひ阿炎関の土俵入りの四股、そして立ち合いの鋭さに注目してみてください。
そこには、師匠から受け継いだ「魂」が確かに宿っています。

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