大相撲の会場に近づくと聞こえてくる、あの独特な太鼓の音。テレビ中継の冒頭や最後でも耳にするその音色は、単なるBGMではなく、相撲の進行や観客へのメッセージを伝える重要な「言葉」としての役割を持っています。「ドンドンドントコイ」や「テンテンバラバラ」といったリズムには、それぞれ明確な意味が込められており、それを知ることで相撲観戦の奥行きは格段に深まります。
多くの人は、太鼓がただ雰囲気を盛り上げるために鳴らされていると考えていますが、実は叩く時間や種類によって、その役割は厳密に決まっています。本記事では、相撲における太鼓の全貌を解明し、明日からの観戦をより楽しむための知識を提供します。
- 相撲の太鼓には大きく分けて3つの種類が存在する
- 太鼓を叩いているのは「呼出(よびだし)」という専門職である
- リズムや叩く時間には、客を呼ぶ・帰すといった明確な意図がある
- 雨の日や千秋楽など、特定の条件下では太鼓が打たれないことがある
- 櫓(やぐら)の上で演奏される太鼓は、江戸時代からの伝統である
相撲の太鼓は呼出が奏でる伝統の響き
相撲と太鼓は切っても切れない関係にあり、その歴史は江戸時代まで遡ります。単なる楽器としてではなく、情報の伝達手段として発達してきた相撲の太鼓には、長い時間をかけて培われてきた伝統と技術が詰まっています。まずは、誰がどのような場所で叩いているのか、その基本的な背景から理解を深めていきましょう。
呼出(よびだし)の三大仕事とは
相撲の太鼓を叩いているのは、行司でも力士でもなく、「呼出(よびだし)」と呼ばれる専門の裏方です。彼らは取組前に力士の四股名を独特の節回しで呼び上げることで知られていますが、実はその業務は多岐にわたります。呼出の世界では「呼び上げ」「土俵築(どひょうつき)」「太鼓」が三大仕事と呼ばれており、太鼓の演奏は彼らにとって欠かせない重要な職務の一つなのです。
新人の呼出は、まず太鼓の叩き方から徹底的に指導を受けます。独特のリズムやバチさばきを習得するには長い年月が必要とされ、一人前になるまでには多くの稽古を積み重ねなければなりません。本場所中、櫓の上で美しい音色を響かせることができるのは、選ばれた技術を持つ呼出だけとも言えるでしょう。
高さ16メートルの櫓(やぐら)の上で
本場所が開催される国技館の入り口付近には、高さ約16メートルにも及ぶ「櫓(やぐら)」が設置されています。この櫓の上こそが、太鼓が演奏される舞台です。エレベーターなどは存在せず、呼出は急な梯子を登って頂上まで行き、そこで太鼓を打ち鳴らします。
櫓の上は風が強く、冬は寒く夏は暑い過酷な環境ですが、高い場所から音を届けることで、遠くの人々にまで相撲の開催を知らせる役割を果たしてきました。かつて高い建物が少なかった時代、櫓の上から響く太鼓の音は、江戸の町中に届くほどの音量と響きを持っていたと言われています。現在でもその伝統は守られ、櫓の上での生演奏にこだわり続けています。
江戸時代から続く情報伝達の手段
インターネットやテレビがない江戸時代において、太鼓の音は最も素早く広範囲に情報を伝えるメディアでした。相撲の太鼓は、単に興行が行われていることを知らせるだけでなく、その日の取組の開始や終了、さらには翌日の開催予定までをも音で伝えていたのです。人々は太鼓の音を聞くことで、「今日は相撲をやっているな」「もう終わったのか」と判断していました。
この情報伝達の機能は、現代においても形を変えて残っています。例えば、千秋楽には翌日の興行がないため、特定の太鼓が打たれないといったルールは、当時の「明日の開催を知らせる」という機能的な意味合いを忠実に継承している証拠です。太鼓の音には、数百年前の江戸庶民と同じ情報を共有しているというロマンがあります。
現代における太鼓の役割と心理効果
現代ではスマホでいつでも情報を確認できますが、それでも太鼓が叩かれ続けるのは、その音が持つ心理的な効果が大きいからです。会場に近づくにつれて聞こえてくる太鼓の音は、観客の期待感を高め、「これから非日常空間に入るのだ」というスイッチを入れる役割を果たしています。これを「高揚感の演出」と呼ぶことができるでしょう。
また、帰宅時に流れる太鼓の音には、興奮した観客の気持ちを静め、余韻に浸らせながらスムーズな退場を促す効果もあります。太鼓のリズムは人間の心拍数や歩調に影響を与え、無意識のうちに人々の行動をコントロールする高度な心理的アプローチとしても機能しているのです。
雨の日は櫓太鼓をどうするのか
太鼓の皮は湿気に非常に弱く、水分を含むと伸びて音が悪くなったり、最悪の場合は破れてしまったりすることもあります。そのため、雨天時や強風の時には、櫓の上での演奏は中止されるのが一般的です。これは楽器を守るための不可避な措置であり、呼出の判断によって決定されます。
では、雨の日は太鼓の音が全く聞こえないのかというと、そうではありません。現代では、録音された太鼓の音をスピーカーから流すことで対応することが多くなっています。生演奏の迫力には及びませんが、太鼓の音が途切れることなく相撲情緒を守るための工夫がなされています。もし晴れているのに音がスピーカーから聞こえる場合は、湿度が極端に高いなどの理由があるのかもしれません。
本場所を彩る3種類の太鼓とその詳細
一口に「相撲の太鼓」と言っても、その種類は一つではありません。主に「寄せ太鼓」「はね太鼓」「触れ太鼓」の3種類があり、それぞれ叩かれるタイミングや目的が異なります。これらを聞き分けることができれば、相撲通への第一歩を踏み出したと言えるでしょう。
開場を告げる「寄せ太鼓(一番太鼓)」
「寄せ太鼓」は、その名の通り「お客様を寄せる」ために打たれる太鼓です。現在は本場所の朝8時頃から約30分間、櫓の上で打ち鳴らされます。かつては夜明け前に打たれていた「一番太鼓」と、関取が入る頃の「二番太鼓」がありましたが、現在はこれらが統合され、一般的に「寄せ太鼓」と呼ばれていますが、古くからのファンや関係者は今でも敬意を込めて「一番太鼓」と呼ぶことがあります。
この太鼓は、静かな朝の空気に響き渡り、これから始まる熱戦を予感させる清々しい音色が特徴です。まだ観客がまばらな時間帯に打たれるため、実際に生で聞くには早起きをして会場に向かう必要がありますが、その価値は十分にあります。朝の国技館周辺でこの音を聞くと、身が引き締まる思いがするものです。
一日の終了を知らせる「はね太鼓」
すべての取組が終了し、弓取式(ゆみとりしき)が終わった直後に打たれるのが「はね太鼓」です。この太鼓には「本日の興行はこれにて終了しました」という合図の意味と、「気をつけてお帰りください」「また明日もお越しください」という願いが込められています。夕暮れ時に響くこの音は、どこか哀愁を帯びており、祭りのあとの寂しさと心地よい疲労感を演出します。
はね太鼓の特徴は、その軽快でありながらも区切りを感じさせるリズムにあります。観客はこの音を聞きながら家路につき、今日の勝負を振り返り、明日の取組に思いを馳せるのです。まさに一日の締めくくりにふさわしい、相撲興行のラストシーンを飾る音色と言えるでしょう。
街中に開催を触れ回る「触れ太鼓」
「触れ太鼓」は、櫓の上ではなく、土俵上や街中で打たれる太鼓です。初日の前日に行われる「土俵祭」の後に、呼出たちが太鼓を打ち鳴らしながら「相撲の開催」を知らせて回る儀式として知られています。独特の口上とともに太鼓を叩き、相撲部屋や贔屓筋(ひいきすじ)を回る姿は、江戸の風情を今に伝える貴重な光景です。
また、本場所中も土俵入りや幕内取組の開始前に、土俵の周りを回って太鼓を打つことがあります。これは「顔触れ(かおぶれ)」を知らせる意味合いもあり、これから登場する力士の名前を呼び上げながら太鼓を叩く独特のスタイルです。櫓太鼓とは異なり、より身近な距離で太鼓の音と呼出の声を楽しむことができるのが魅力です。
リズムに込められた意味と「テンテンバラバラ」
相撲の太鼓には、言葉遊びのようなリズムの解釈が存在します。これは単なる語呂合わせではなく、興行の成功や観客への感謝、そして縁起を担ぐ意味が深く込められています。ここでは、代表的なリズムの解釈とその意味について詳しく見ていきましょう。
人を呼ぶ「ドンドンドントコイ」
朝に打たれる「寄せ太鼓」のリズムは、昔から「ドンドンドントコイ(どんどんドンと来い)」と聞こえると言われています。これは「お客様がたくさん来ますように」「金を持ってどんどん来い」という、興行主としての切実な願いと商売繁盛の祈りが込められたものです。力強く、小気味よいリズムは、聞く人の足を自然と会場に向けさせるようなエネルギーを持っています。
また、バチを内側に迎え入れるように打つ動作も特徴的で、これも「外のお客様を中に招き入れる」という所作を表しています。単に音を出すだけでなく、その身体動作一つ一つにも意味を持たせている点が、相撲という伝統芸能の奥深さを示しています。
散りゆく「テンテンバラバラ」
終了時に打たれる「はね太鼓」のリズムは、「テンテンバラバラ」と表現されます。これは「お客様がてんでんバラバラに帰っていく」様子を描写したものであり、混雑せずにスムーズに退場してほしいという安全への配慮も含まれていると言われます。軽快に跳ねるようなリズムは、観客の足を軽くし、スムーズな帰宅を促す効果があるようです。
この「テンテンバラバラ」には、バチを外側に払うような打ち方が用いられることもあり、これは「中の邪気を外に払う」あるいは「お客様を外に送り出す」という意味に通じます。寄せ太鼓とは対照的なリズムと所作が、一日の始まりと終わりを見事に表現し分けているのです。
千秋楽に「はね太鼓」がない理由
非常に重要なルールとして、「はね太鼓は千秋楽には打たれない」というものがあります。これは、はね太鼓に「また明日もお越しください」という意味が含まれているためです。千秋楽で全日程が終了すると「明日」の興行はないため、この太鼓を打つことは矛盾してしまいます。
そのため、千秋楽のすべての取組が終わった後は、太鼓の音はなく静かに興行が幕を閉じます。もし千秋楽の後に太鼓の音が聞こえたとしたら、それは何かの間違いか、あるいは別の意図がある特別な演奏かもしれません。この「打たないことによるメッセージ」を知っていると、千秋楽の静寂がより一層感慨深いものに感じられるはずです。
本場所観戦で太鼓を楽しむためのガイド
知識を得たところで、実際に本場所で太鼓の音を楽しむための具体的な方法を紹介します。太鼓の音はテレビ中継でも聞こえますが、やはり現地で聞く生の音、特に空気の振動を伴う響きは格別です。どのタイミングに行けば確実に聞けるのか、ポイントを押さえておきましょう。
本場所で生音を聞くベストタイミング
最も確実に、かつクリアに太鼓の音を聞くことができるのは、やはり朝8時から8時30分の間です。この時間帯はまだ観客も少なく、周囲の騒音も控えめであるため、櫓の上から降り注ぐ「寄せ太鼓」の純粋な音色を堪能できます。国技館の正門付近に立ち、櫓を見上げながら耳を澄ませる体験は、早起きした人だけの特権です。
また、夕方の打ち出し後も狙い目です。結びの一番が終わると同時に帰宅の途につく人が多いですが、あえて少し立ち止まり、「はね太鼓」の音を聞きながら余韻に浸るのも粋な楽しみ方です。ただし、千秋楽には打たれないことを忘れないようにしましょう。狙うなら初日から14日目までの間が必須です。
地方巡業での太鼓実演コーナー
本場所だけでなく、地方巡業でも太鼓を聞くチャンスがあります。巡業では、本場所のような櫓がない場合が多いため、土俵上で呼出による「太鼓の打ち分け実演」が行われることがよくあります。これは至近距離でバチさばきを見ることができる絶好の機会です。
実演コーナーでは、寄せ太鼓とはね太鼓の違いを解説付きで披露してくれることが多く、初心者には非常に分かりやすい内容となっています。時にはユーモアを交えた解説が入ることもあり、相撲の堅苦しいイメージを払拭する楽しい時間となるでしょう。巡業に行く際は、プログラムに「太鼓実演」があるかチェックしてみてください。
録音やCDで楽しむ方法
現地に行けない場合でも、相撲の太鼓を楽しむ方法はあります。日本相撲協会からは太鼓の音を収録したCDが発売されており、自宅にいながらにして本場所の雰囲気を味わうことができます。高音質で録音された太鼓の音は、作業用BGMとしても意外な集中力を発揮するかもしれません。
また、YouTubeなどの動画サイトでも、公式チャンネルなどが太鼓の映像を公開している場合があります。映像で見ると、呼出のバチの動きや体の使い方がよく分かり、音だけでは気づかなかった技術的な凄さを発見できるでしょう。まずは動画で予習をしてから、現地で本物の音を聞くというステップもおすすめです。
知っておくと自慢できる太鼓の豆知識
最後に、相撲の太鼓に関する少しマニアックな豆知識を紹介します。これらを知っておけば、相撲仲間との会話で一目置かれる存在になれるかもしれません。道具へのこだわりや、伝統を守るための裏話など、太鼓の周辺には興味深いエピソードがたくさんあります。
太鼓の皮とメンテナンスの秘密
相撲で使われる太鼓は、一般的に牛の一枚皮が使われています。この皮は非常にデリケートで、湿度や温度の変化によって音が変わってしまいます。そのため、呼出たちは常に皮の状態をチェックし、締め具合を調整しています。良い音を出すためには、単に叩く技術だけでなく、楽器のメンテナンス技術も不可欠なのです。
特に長年使い込まれた太鼓は、皮が馴染んで独特の深みのある音を出しますが、同時に破れやすくもなります。本場所中に皮が破れることは不吉とされるため、事前の点検は念入りに行われます。あの響きは、日々の地道な管理によって支えられているのです。
バチさばきの技術継承と個性
太鼓を叩くバチは、呼出によって長さや重さの好みが異なります。また、叩き方にも個性が表れ、ベテランのファンになれば「今の音は〇〇呼出だ」と聞き分けることができるほどです。基本のリズムは同じでも、間の取り方や強弱の付け方に、叩き手の人となりが滲み出ます。
この技術は口伝や見よう見まねで先輩から後輩へと受け継がれます。譜面があるわけではなく、耳と体で覚える職人技です。若い呼出が一生懸命練習している音と、ベテラン呼出の枯れた味わいのある音を聞き比べるのも、相撲の奥深い楽しみ方の一つと言えるでしょう。
相撲甚句(すもうじんく)との関連性
太鼓と並んで相撲の音の文化を支えているのが「相撲甚句」です。巡業などで披露されるこの歌にも、合いの手として太鼓が入ることがあります。甚句の哀愁漂う旋律と、太鼓の力強いリズムが融合することで、独特の相撲情緒が醸し出されます。
相撲甚句の中には、太鼓の音を歌詞に盛り込んだものもあり、両者が互いに影響を与え合いながら発展してきたことが分かります。太鼓単体だけでなく、こうした周辺文化とのつながりを知ることで、大相撲という伝統芸能の全体像がより鮮明に見えてくるはずです。
まとめ
相撲の太鼓は、単なる合図ではなく、江戸時代から続く情報伝達の手段であり、興行の成功を祈る神聖な儀式でもあります。「寄せ太鼓」で観客を招き、「はね太鼓」で感謝を伝えて送り出す。この一連の流れには、相撲界のおもてなしの心が詰まっています。
次回、相撲を観戦する際やテレビ中継を見る際は、ぜひ太鼓の音に耳を傾けてみてください。「ドンドンドントコイ」というリズムが聞こえたら、それはあなたを歓迎しているサインです。太鼓の意味を知ることで、土俵上の勝負だけでなく、会場全体を包む空気感までも楽しめるようになるでしょう。
まずは次の本場所中継で、始まりと終わりの音に注目することから始めてみてはいかがでしょうか。


コメント