昭和の大相撲ファンなら、その名を聞くだけで胸が躍る力士がいます。金色のまわしを締め、土俵際での魔術的な逆転劇で館内を沸かせた「栃赤城」です。彼の相撲は単なる勝負を超え、見る者に驚きと興奮を与えるエンターテインメントそのものでした。
本記事では、変幻自在の技で「サーカス相撲」とも称された栃赤城の魅力と、42歳という若さで伝説となったその生涯に迫ります。記録よりも記憶に深く刻まれた、稀代の業師の真実を紐解いていきましょう。
| 項目 | データ |
|---|---|
| 四股名 | 栃赤城 雅男(とちあかぎ まさお) |
| 最高位 | 東関脇 |
| 所属部屋 | 春日野部屋 |
| 身長/体重 | 182cm / 140kg(最大) |
| 得意技 | 右四つ、小手投げ、逆とったり |
栃赤城の相撲スタイルと特異な身体能力
栃赤城の相撲は、当時の角界において極めて異端であり、同時に圧倒的な華を持っていました。正攻法の力相撲が良しとされる時代にあって、彼のトリッキーな動きは観客を魅了し続けました。
ここでは、なぜ彼が「技能派」と呼ばれつつも「野武士」のような荒々しさを併せ持っていたのか、そのスタイルの根源を掘り下げます。柔道経験に裏打ちされた独特のバランス感覚は、土俵上で奇跡を生み出す原動力となっていました。
予測不能な「サーカス相撲」の真髄
栃赤城の代名詞といえば、土俵際での驚異的な粘りと意表を突く逆転技です。追い詰められた状態から体を反転させたり、相手の力を利用して空中で舞うような動きを見せることから、彼の取組は「サーカス相撲」と称されました。
このスタイルは、単なる奇策ではなく、彼の卓越した体幹と瞬時の判断力によるものです。観客は「負けた」と思った瞬間からの大逆転劇を期待し、彼が土俵に上がるだけで館内の空気が一変するほどの熱気を生み出しました。
しかし、そのスタイルゆえに安定感を欠くことも多く、勝ち負けがはっきりした「ムラッ気」のある力士でもありました。その危うさこそが、ファンが彼から目を離せなかった最大の理由といえるでしょう。
柔道で培った右半身の強烈なパワー
栃赤城の強さを支えていたのは、入門前に柔道で鍛え上げた強靭な足腰と腕力です。特に右腕と右足の力が並外れて強く、この身体的な偏りが独特の取り口を生み出しました。
右四つになれば、相手が誰であろうと強引にねじ伏せるほどの怪力を発揮します。一方で左側の守りが脆いという弱点もありましたが、彼はそのアンバランスさを逆手に取り、相手を自分の得意な形に誘い込む駆け引きを用いました。
「右からの攻めは横綱級」と評される一方で、脆さも同居するその肉体は、まさに波乱万丈な彼の相撲人生を象徴しています。完成された円熟味とは異なる、尖った強さが彼の武器でした。
技能賞ゼロという「無冠の業師」
驚くべきことに、これほど多彩な技を持ちながら、栃赤城は三賞の「技能賞」を一度も獲得していません。殊勲賞と敢闘賞はそれぞれ4回受賞しているにもかかわらず、最も相応しいと思われる賞には縁がなかったのです。
その理由は、彼の取り口が時に「荒っぽい」「雑だ」と審判部から見なされたことにあります。立ち合いの変化や、強引な張り手、そして相手を翻弄する動きは、伝統的な相撲の美学とは相容れない部分があったのかもしれません。
しかし、ファンにとって彼は間違いなく最高の「技能派」でした。記録上の賞よりも、ファンの語り草となる数々の名勝負こそが、彼に与えられた真の勲章だったといえます。
大型化する力士の中での存在感
昭和50年代、ハワイ勢の台頭などで力士の大型化が進む中、180cm前後の栃赤城は決して巨漢ではありませんでした。しかし、彼はその体格差をものともせず、巨漢力士を手玉に取る痛快な相撲を見せました。
大きな相手の懐に潜り込むのではなく、あえて距離を取りながら技を仕掛けるスタイルは、小よく大を制すのとはまた違うカタルシスがありました。巨体を振り回すような豪快な投げ技は、見る者の度肝を抜きました。
体格のハンデを技術と度胸でカバーする姿勢は、多くの判官贔屓(ほうがんびいき)の日本人ファンの心を掴みました。彼は、力こそ正義という風潮に抗う、反骨のヒーローだったのです。
観客を味方につける天性のエンターテイナー
栃赤城の人気は、単に相撲が強いからという理由だけではありません。土俵上の所作や、勝負が決まった後の表情、そしてインタビューで見せる人柄など、全てが魅力的でした。
彼が登場すると、国技館には独特の「栃赤城コール」にも似たざわめきが起こりました。勝っても負けても何かをやってくれるという期待感は、当時の力士の中でも群を抜いていました。
彼は意識して演じていたわけではないでしょうが、結果としてその生き様そのものがエンターテインメントとなっていました。記録よりも記憶に残る力士として、今なお語り継がれる所以です。
伝説となった多彩な決まり手と独自技
栃赤城を語る上で欠かせないのが、彼が繰り出した独創的な技の数々です。既存の決まり手の枠に収まらない動きは、解説者を困惑させ、対戦相手を恐怖に陥れました。
ここでは、彼の代名詞ともいえる「逆とったり」をはじめ、土俵際で見せた魔術的なテクニックについて詳しく解説します。これらは現代の相撲でもなかなか見ることのできない、彼だけの聖域でした。
代名詞「逆とったり」の衝撃
栃赤城の代名詞といえば、相手の腕を逆に抱えて捻り倒す「逆とったり」です。通常のとったりとは逆の回転を加えるこの技は、相手の関節極め技に近い危険さと高度な技術を要しました。
正面から見ていると、どうやって相手が崩れたのか分からないほどの速さと複雑さを持っていました。彼はこの技を偶然ではなく、狙って出すことができる稀有な力士であり、対戦相手は腕を差し出すことを極端に恐れました。
この技は、彼の握力と手首の強さ、そして一瞬の判断力が融合して初めて成立するものです。まさに「栃赤城スペシャル」と呼ぶに相応しい、彼だけの必殺技でした。
恐怖のプロレス技「五輪砕き」
彼が現役晩年、幕下に陥落してから披露した幻の技に「五輪砕き」があります。これは相手の首と腕を極めて締め上げる、プロレスの技のような荒技で、相手に強烈なダメージを与えるものでした。
「五輪」とは五臓六腑を指し、内臓が砕けるほど苦しいという意味が込められているといいます。相撲の決まり手には存在しない俗称ですが、そのインパクトは絶大で、彼の異端ぶりを象徴するエピソードとして語られています。
引退間際の彼が、なりふり構わず勝利への執念を見せたこの技は、対戦相手にとっては悪夢だったでしょう。晩年になっても衰えなかった彼の闘争本能を示す、凄まじい実話です。
土俵の俵を味方にする足技
栃赤城は、土俵の円周、特に俵(たわら)の上を最大限に活用しました。追い詰められた際、俵に足をかけ、その反発力を利用して相手をうっちゃる技術は芸術的ですらありました。
「俵の上は自分の庭」とでも言わんばかりに、爪先だけで残るそのバランス感覚は、少年時代の柔道経験に加え、日々の稽古で培われた強靭な足腰の賜物です。徳俵(とくだわら)を使った逆転劇は数知れません。
相手力士からすれば、追い詰めたはずが逆転の起点にされてしまうため、最後まで気が抜けません。この土俵際の魔術こそが、栃赤城相撲の真骨頂であり、最もスリリングな瞬間でした。
千代の富士も恐れた「ウルフキラー」の真実
大横綱・千代の富士が全盛期を誇った時代、彼に対して互角以上に渡り合った力士は極めて少数です。その中の一人が栃赤城であり、彼は「ウルフキラー」としてその名を轟かせました。
ここでは、二人のライバル関係と、栃赤城がなぜ最強横綱に対して強さを発揮できたのかを分析します。相性という言葉だけでは片付けられない、男たちの意地のぶつかり合いがありました。
勝ち越しという驚異の対戦成績
栃赤城と千代の富士の対戦成績は、栃赤城の8勝7敗(幕内対戦)。なんと、あの大横綱に対して勝ち越しているのです。特に千代の富士が横綱に昇進した後も、栃赤城は彼にとっての大きな壁であり続けました。
スピードとパワーで圧倒する千代の富士に対し、栃赤城は変則的な動きと間合いで真っ向勝負を避け、自分のペースに引きずり込みました。千代の富士が自分の形になれない数少ない相手だったのです。
この記録は、栃赤城の実力が単なる「曲者」の域を超えていたことを証明しています。最強の横綱に土をつけることができる実力者として、彼は記録にも記憶にも残る存在となりました。
1979年の関脇昇進と快進撃
栃赤城のキャリアハイライトは、1979年の関脇昇進前後です。この時期の彼は心技体が充実しており、上位陣を次々と撃破して大関候補とまで呼ばれました。
特に強烈な張り手と前さばきで相手を翻弄し、そのまま一気に寄り切る速攻も見せました。技能派というイメージが強いですが、全盛期は力強さも兼ね備えており、手のつけられない強さを誇っていました。
もしこの時期に怪我がなければ、さらに上の番付、あるいは大関の地位も夢ではなかったと言われています。それほどまでに、この時期の栃赤城の輝きは鮮烈でした。
怪我との壮絶な戦いと転落
栃赤城の相撲人生は、常に怪我との戦いでもありました。変則的な相撲は身体への負担が大きく、膝や腰、さらには内臓疾患にも悩まされました。
特に足の怪我は致命的で、得意の土俵際の粘りが影を潜める原因となりました。番付を下げてからも現役を続けましたが、全盛期のようなバネのある動きは徐々に失われていきました。
それでも土俵に上がり続けたのは、相撲への執念以外の何物でもありません。満身創痍の中で見せる一瞬の輝きに、ファンは最後まで声援を送り続けました。
愛すべきキャラクターと早すぎる別れ
土俵上では策士であり、鬼のような形相を見せる栃赤城でしたが、土俵を降りれば非常に人間味あふれるキャラクターで知られていました。そのギャップもまた、彼が愛された理由の一つです。
ここでは、彼のユニークなエピソードや、引退後の生活、そしてあまりにも突然だった別れについて触れます。彼の人生そのものが、まるで一本のドラマのように起伏に富んでいました。
アンパンと柄パンの愛嬌
栃赤城には、強面な外見に似合わない可愛らしいエピソードがあります。大の甘党で、特に「アンパン」をこよなく愛し、支度部屋でもよく頬張っていたという話は有名です。
また、当時としては珍しく派手な柄のパンツ(下着)を愛用していたことから、「柄パン」という隠れたあだ名もありました。厳しい勝負の世界に生きながら、どこかお茶目な一面を持っていたのです。
こうした人間臭いエピソードは、彼をより身近な存在に感じさせました。ただ強いだけでなく、愛嬌のあるキャラクターであったことが、ファンの心を掴んで離さない要因でした。
現役引退と第二の人生
怪我と戦いながら幕下まで番付を下げ、1990年に現役を引退しました。引退後は年寄「春日野」の部屋付き親方として後進の指導に当たる道もありましたが、彼は協会に残らず、相撲界を去る決断をします。
引退後は故郷に戻り、家業を手伝うなど静かな生活を送っていたとされています。華やかな土俵の世界とは対照的な、穏やかな第二の人生を歩み始めたようでした。
しかし、ファンは彼が親方としてあの奇想天外な技を次世代に伝えてくれることを期待していました。彼が角界を去ったことは、相撲界にとって大きな技術的損失だったのかもしれません。
42歳での急逝とゴルフ場の悲劇
1997年8月18日、衝撃的なニュースが相撲界を駆け巡りました。栃赤城が42歳という若さで急逝したのです。死因は急性心筋梗塞でした。
兄弟子たちとのゴルフ中に体調不良を訴え、そのまま帰らぬ人となりました。あまりにも突然の別れに、かつてのライバルたちやファンは言葉を失いました。
伝説の技能派力士の早すぎる死は、彼の相撲人生と同様に、儚くも鮮烈な印象を世間に残しました。彼の死を悼む声は今も絶えず、命日には多くのファンが彼を偲んでいます。
栃赤城が現代相撲に残したレガシー
栃赤城がこの世を去って長い年月が経ちましたが、彼の相撲は今もなお色褪せることがありません。むしろ、画一化が進む現代相撲において、彼の個性はより一層の輝きを放っています。
ここでは、彼が相撲史に何を残したのか、そして現代の力士たちが彼から学ぶべき点について考察します。記録には表れない、彼の真の功績についてまとめます。
「個性派力士」の象徴として
栃赤城は、「力士はこうあるべき」という固定観念を打ち破った先駆者の一人です。型にはまらない取り口は、後の舞の海や智ノ花といった小兵・技能派力士たちへの道を開いたともいえます。
自分の体格や特性を理解し、勝つために独自のスタイルを確立する姿勢は、アスリートとしての究極の形です。彼は、相撲が単なる力比べではなく、知恵と技術の格闘技であることを証明しました。
現代の相撲界においても、彼のような「何をしてくるか分からない」力士の出現が待望されています。栃赤城の存在は、個性を磨くことの重要性を今の世代に教えてくれています。
動画サイトで再評価される技術
インターネットの普及により、栃赤城の現役時代の映像が容易に見られるようになりました。これにより、当時のファンだけでなく、若い世代や海外の相撲ファンが彼の技術に驚嘆し、再評価が進んでいます。
「まるで合気道のようだ」「物理法則を無視している」といったコメントが寄せられ、彼の技は時代を超えて通用するエンターテインメントであることが証明されています。デジタル時代に蘇った伝説、それが栃赤城です。
彼の取組映像は、相撲の奥深さを知るための最高の教科書です。勝負の瞬間に凝縮された技術の粋は、これからも多くの人々を魅了し続けることでしょう。
記録よりも記憶に残る名力士
通算成績や優勝回数だけを見れば、栃赤城より優れた力士は沢山います。しかし、「忘れられない力士は誰か」と問われれば、多くのオールドファンが真っ先に彼の名を挙げるでしょう。
その理由は、彼が土俵上で見せた生き様そのものが強烈だったからです。勝っても負けても、そこにはドラマがありました。彼の相撲には、人間の執念や工夫、そして脆さが同居していました。
栃赤城という力士は、大相撲が持つ「興行」としての面白さを体現した存在でした。彼のような華のある力士がいたという事実は、相撲史における永遠の宝物です。
まとめ:栃赤城の伝説は永遠に
栃赤城雅男という力士は、昭和の土俵に咲いた徒花(あだばな)ではなく、確かな実力と強烈な個性で時代を彩った大輪の花でした。変幻自在の技、千代の富士との名勝負、そして早すぎる死。その全てが伝説として語り継がれています。
現代の相撲ファンも、ぜひ彼の過去の映像を探してみてください。そこには、今の相撲では味わえないスリルと、力士という職業の枠を超えた一人の男の生き様が映し出されているはずです。栃赤城の記憶は、私たちの心の中で永遠に生き続けます。


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